建設土木DXに関する記事をお届けします

NYシティーガールが家業の土木で起業!株式会社MIEZが生まれるまで(1)

「毎朝スタバのアーモンドミルクを飲むんです」
そう笑顔で出迎えてくださったのは、株式会社MIEZ代表の福田聆。明るい笑顔が印象的な福田ですが、その姿の裏には、土木業界において強い挑戦を続ける情熱がありました。

福田聆(ふくだ れい)

・株式会社MIEZ 代表取締役 
・福田建設工業株式会社 常務取締役

土木業界におけるDXの遅れに衝撃を受け、家業である福田建設工業に参画。ダンプトラックの手配や工事といった業務において、効率化や技術革新の必要性を感じ、業界全体の進化を目指すべく株式会社MIEZを創立。ICTで土木を進化させるべく、挑戦し続けています。

実は福田、かつてニューヨークで仕事をしていたシティーガール。華やかなキャリアを築いていた福田が、なぜ京都の家業である土木業界に飛び込み、さらに起業されたのでしょうか。その背景にある決断と歴史に迫ります。

前後編の2編でお届けします。


生まれ:仕事場は怖いおじさんだらけ。父の現場に興味はなかった

1991年3月、京都市で生まれました。私が6歳のころに福田建設工業が設立され、幼少期から現場の仕事が身近にあった環境でしたが、家業にはあまり関心がありませんでした。

2歳差の妹、晶がいます。晶は幼い頃から父の仕事に興味を持ち、会計事務所で経理と法務のキャリアを積んだ後、家業に入社。一方で、私は別の道を選び、家業とは異なる方向に進んでいました。家業については「何をしているのか分からない」「土臭い」「おじさんばかり」というイメージが強く、正直なところ興味を持てずにいて。当時の現場には怖いおじさんも多く、父からも家業を継いでほしいと言われることはありませんでした。それどころか、土建屋は女がするものではないという雰囲気があり、考えもしていませんでしたね。

中学生:周囲や流行に流されないのはこの頃から

なぜか英語が好きで英語部に入部しました。ラップとHIPHOPが好きで、EminemやZeebraをよく聴いていました。誰かの影響を受けたわけではなく、CDの試聴でたまたま見つけたのがきっかけだったと思います。

高校生:“塾いらず”を誇る高校で夜10時まで走り抜いた

「塾がいらない高校」と言われるほど、入学時から受験勉強に力を入れる学校に通っていました。2年生になると本格的に受験に向けた日々が始まり、毎日夜10時頃まで学校で勉強する生活を送っていました。

大学生:大学が楽しく感じられない、勉強と海外旅行の楽しさに気づく

1~2年生の頃は大学生活があまり楽しく感じられず、学校に行く頻度も少なかったです。しかし、3~4年生になると勉強の楽しさに目覚め、無事に卒業することができました。3年生のときには、オーストラリアのメルボルンに3ヵ月間の短期留学を経験。これが人生で初めてのひとり海外旅行で、今でも印象深い思い出です。

当時、テレビドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』を見て、ニューヨークに強い憧れを抱いていました。DVDを借りて繰り返し観ていたほどで、ニューヨークという街が私の心を引きつけてやまなかったんです。

就職活動については、実は一度もしっかり取り組んだことがありません。仕事をする気はあまりなかったけれど、「働かなきゃいけないな」と思いながら大学を卒業しました。


23歳:“今しかできない”を叶えるため、アパレルを辞めて事務職からNYへ

興味があったのでアパレル業界に勤めましたが、実際にやってみると全然楽しくなかった。「これを続けて何になるのか」と思い、自分の性格に合わないと感じて、辞めることを決意しました。明確な理由があるわけではありません。

立ち仕事に疲れたこともあり、次は事務職を探しました。当時から海外への憧れが強く、受験勉強を含め独学で英語を学び続けていたこともありました。特に読み書きは得意で、英語を使える仕事に就きたいという気持ちが強かったです。条件として掲げたのは、1. 英語が使えること2. 事務職であること3. 家から通いやすいことの3つ。その結果、フォークリフト関連企業の海外事業部を見つけ、派遣社員として採用されました。

仕事は楽しく、同世代の正社員の女の子と特に仲が良く、「あれもやりたい、これもやりたい」とお互いに積極的に提案しながら働いていました。上司や同僚にも可愛がってもらい、いい人たちに囲まれていましたね。ある時、「正社員にならへんか」と声をかけられて。でも「今しかできないことをしたい」と思いが湧き上がり、ずっと憧れていたアメリカ・ニューヨークへの挑戦を決意しました。

アメリカへ行くためには、アメリカで仕事を見つけてビザを取得する必要がありました。会社には「ビザを取るまで在籍させてほしい」と相談し、サポートを受けながら渡米の準備を進めました。そして、夢のニューヨークへ旅立つのです。


26歳:ビザはあと1ヶ月。英語も喋れないまま、NYの街を駆け回った就職活動

アメリカで最初に入ったのはアクセサリー会社でした。社長(日本人)と副社長(韓国人女性)はパートナー同士で、2人とも本当に嫌な人たちで…。副社長が放った「生まれながらにして日本であることが良いよね」という言葉が今でも忘れられません。

「アメリカに来たし、最低2年は頑張りたい」と思い踏ん張っていましたが、「あ、無理や。転職をしないと私の心が死んでしまう」とプツンと頑張っていたものが切れました。入社して3ヶ月目で退職をしました。

アメリカのビザは仕事を辞めてから1ヶ月以内に次の仕事が決まってないと、強制退国をさせられるんです。アメリカに行き3ヶ月、まだ英語を喋れない状態で、仕事を探すことを余儀なくされました。読み書きは得意でしたが、喋る機会は日本でほとんどなくって。友達、親族などの知り合いがひとりもいなかったので、街で日本人を見かけては「仕事はありませんか?」と尋ねる日々。必死に面接を受け、最終的に見つかったのが賃貸不動産の仲介業でした。

それからはバラ色でしたね。日系のお客さんを抱える不動産仲介を行う会社で、私は日本から来た駐在員さんを案内していました。仕事はすっごく楽しくて、物件を探すのは全て英語、紹介は日本語。案内するときは通訳的な役割をしたりと、日本語と英語を話すスキルが活かせました。また、どちらかというと1人で行動する方が好きで、不動産の案内は基本1人で、お客さんも1人だったので裁量がありました。「もう一生ここでもいいや」と思うぐらい、良い職場でしたね。

NYの刺激が心を掴んで離さなかった

アメリカのニューヨークに決めたのは『セックス・アンド・ザ・シティ』が好きだったからです。ニューヨークは楽しくて大好きな街です。合う人、合わない人がはっきり分かれる街だと思います。ニューヨークが好きな人は、変わり者ばかり。とんがっていて、ある種の面白さをもつ人が集まります。大半の人は「怖い、帰りたい」と言いますね。不思議なのが、アメリカに行ったこともなかったし、知り合いもいなかったし、話を聞いていたわけでもないですが、怖いと思ったことが一度もありませんでした。

当時の10年後についての展望は「世界で一番タフと言われるこの街(NY)にただ『いる』だけでは駄目。ここで戦う人達と同等に張り合えるように、人脈を広げ、叱咤激励されながら、さまざまなものを吸収していきたい」

28歳:トランプ政権でビザ切れ急転帰国。再び京都に帰るまで

トランプ政権に変わったタイミングで、ビザが更新できなくなり、帰国を余儀なくされました。いられるならずっとニューヨークにいるつもりだったので、不本意中の不本意。失意の中、日本に帰国しました。「ビザが取れるなら様子を見て、申請しようか」と社長とも話をしていました。しかし、その後すぐに新型コロナが流行し、いつ戻れるかも分からなくなってしまいました。

仕事をしないわけにもいかず、その当時付き合っていた彼(現在の旦那さん)と一緒に東京へ行きました。彼は元々続けていた美容師を、私は建設ITサービスを提供するベンチャー企業で働きました。このときにも家業に対して関心も興味もなく、シティーガールとして都会で生きていきたいと思っていました。

アーティストの方と友達になれる機会も多くありました。面白い人ばかりでした。おそらく東京にしかいないだろうなと思うような、地方では合わなかった、ある種尖っている人たちです。「普通は」とか「常識は」といった言葉を使わずに、会話ができるのが居心地が良かったですね。新型コロナの影響で完全にリモートワークになり、京都の実家へ。事務所で仕事をする日々が続きました。


30歳:『アメリカかぶれうるさい』?ガタガタ鳴る複合機からはじまる、家業改革

事務所で仕事をしているときに、突然複合機がガタガタと音を立てました。触ってもいないのに文句を言われたら嫌だなと思って、妹に電話したんです。妹は私より先に事務や経理として家業に携わり、今ではダンプの運転もしています。

妹「それFAXって言うんですよ」
私「え、まだFAXなんて使ってんの?!」
妹「普通やろ、アメリカかぶれも大概にして」

と言われ、電話を切られました。

隕石が落ちてくるくらいの衝撃でしたね。FAXは過去の遺産だと思っていたのが、まだ平気で使われているんだと。このときまで、私が働いた部署にはFAXを使う習慣なんてありませんでした。FAXの番号はあるけど、実際に使うことなんてない状態だったんです。

その時たまたま届いたのが、見積もり依頼。大事な書類がガビガビの状態で送られてきて、さらにFAXで送り返してほしいと書いてある。「読み取れなくない?」と思わず言いたくなりました。

さらに、FAXって届いたり届かなかったりすることがあって。同じタイミングで送るとリジェクトされます。上手くいかなかったお知らせも届かないんです。だからFAXを送ったときは、電話で確認するらしいんですよ。「送りました。確認してください」「後で確認します」。届かなかったら「届いていませんでした」と言われ、もう一回送り直す。そんなやりとりが19時や20時にまで及ぶこともあります。

私にとっては衝撃的なことが、ここの人たちにとっては「うるさいな、これが普通やのに」という感覚なんです。その温度感にも驚きました。「これが普通」と言っている会社なら、ちょっとだけ上手にやれば稼げそうだなと思ったんですよ。じゃあ、会社に入るのも面白いかも。0か100かなので、そう思ったら入社したい気持ちが抑えきれなくなりました。その月末には会社に辞めたいと相談しました。


当初は事務員として入りましたが、父も私が遊び半分で入ると思っていたんでしょうね。特に業務内容などの打ち合わせもありませんでした。そこからは全部変えましたね。名刺も真っ白だったのを、会社のテーマカラーであるピンクに変更しました。

ホームページ、名刺、メールアドレス、共有フォルダ、番頭など、ありとあらゆることを変えていたので、最初の1年くらいは、めちゃめちゃ嫌がられていたと思います。妹とは喧嘩をすることも多く、「なんで余計なことすんの?面倒くさい、意味が分からへん、今までこれでやれてたのに」とキレられましたね。理由がない批判については「無視、無視♪」と流して。実は打たれ弱いので、内心傷ついているのですが(笑)


“いつもの機械がいい”の声を覆せ!ICT施工が切り拓く建設の新時代

入社後3~4ヶ月で現場を知るために現場に行きました。最初は「なんで現場に来るねん、危ないしどっか行っとけ」と邪魔者扱いでしたね。地山の土を整えた後に上からコンクリートを流すのですが、大きな現場でも人力でトンボを使って砕石をならしていました。これを見て「原始人やん」と思いました。FAXの件と同じくらいの衝撃でしたね。

どうにかできないのか調べているときに、建設新聞で目に留まった「ICT施工」という言葉。現場ではまだ実施しているところを見たことがなく、スーパーゼネコンだけがやっている特別なことなのかなと思っていました。こういった取り組みをしている企業がないかと知り合いに聞いたところ、兵庫の会社を紹介してもらいました。その社長とは今でも仲が良いです。

国交省の下請けで入る仕事には、「ICT技術を用いるように」と指定されたものもありましたが、実際にはできる人間がいないためメーカーに丸投げで対応していました。そのため、何が良くなるのか社内では誰も理解しておらず、「いつもの機械の方がいいのに」と愚痴が出るばかりで、ICT施工のメリットや生産性向上に繋がっていない状況でした。これはおかしい、と気づき、「なら自分でやってみよう」と決意しました。

”こっちのほうが面白そう”彼とNYで出会い、ピースがはまり始めた

やりたいことがあるのに日々の業務もあって、「人がいない」と家で言い続けていたところ、パートナーである彼がCADデータの作成を手伝ってくれました。しばらくして「現場での深い知識がないと不具合が出るね」と話していたとき、彼が「福田建設工業に入社するよ。そっちのほうが未来があって面白そうやん」と言ってくれたんです。最初は、美容師として道を極めている彼が土建屋に入るなんて申し訳ないと思って断りました。

でも「一緒にやろう」と言ってくれて、彼も家業で働いてもらうことになりました。今は半年ほど経ち、ようやく上手くピースがはまり始めたと感じています。

PAGE TOP